先週、JRA通算600勝を達成した松田博資厩舎。
今や東西でも屈指の名門として、その名は認められているかと思います。
アドマイヤ冠や社台RH、サンデーレーシングの勝負服をターフに送り出し、
安藤勝己や岩田康誠、もしくは外国人騎手を重用するそのスタンスは、
ひとことで表すならば「エリート軍団」と称して間違いではないでしょう。

また、かつて主戦級の扱いをしていた藤田伸二との関係をバッサリと絶ったり、
近藤利一氏よりも前から武豊降ろしに動くなど、
築き上げられる人間関係もなかなかシビアな印象があります。
ボスも見た目はイガグリ頭の爺さんですけど、
人当たりを見るとちょっと怖そう。

そのあたりも、「名門」特有のピリッとした空気を感じさせます。

でもね、ちょっと待って下さい。
そもそも松田博厩舎っていつから「名門」でしたっけ?
私が競馬を見始めた90年代後半から、
毎年GI戦線を賑わすような有力厩舎でしたか?

そうじゃないはず。

今日は、松田博厩舎がいかに「名門」への道を歩んだか、
そしてその分岐点として語られるべき、一頭の名馬との運命について書きます。

まず、「名門」松田博厩舎の代表的な管理馬を挙げてみましょう。
現役最強馬ブエナビスタ、
07年の年度代表馬アドマイヤムーン、ダート王タイムパラドックス...
さらにはアドマイヤオーラやアドマイヤジャパン、
アドマイヤモナークやアドマイヤキッスといったアドマイヤ軍団を中心に、
近年のGI戦線で大活躍中。
誰もが羨む豪華なラインナップです。

しかし、前述の90年代後半から2000年初頭に関しては、
そこまで活躍馬を列挙できる陣容ではありませんでした。
もちろん、レッドチリペッパーやバトルライン、
ビワタケヒデにブゼンキャンドルなど、
重賞戦線でコンスタントに戦える馬はいたものの、
今に比べれば質量ともに劣っていたのは間違いありません。
事実、この頃は勝利数も年間20勝ラインをうろうろといった感じで、
せいぜい中堅の厩舎という見方が一般的だったのではないでしょうか。

■松田博資厩舎 年度別成績表

リンク先をご覧いただければわかる通り、
03年に勝ち数、獲得賞金ともに大幅なジャンプアップを遂げています。
以後は毎年高いレベルの成績を維持しており、
通算のJRA重賞勝ち数「52」のうち「36」は、この03年以降に挙げています。
ここが分岐点になったのは明らか。
そして、この時代に松田博厩舎に存在したエースが、
後の運命を変えたと断言しても構わないでしょう。

そう、アドマイヤドンです。

二冠牝馬の次男坊が01年の朝日杯FSを制し、
翌年以降もダート界で長期にわたって活躍できたことにより、
前述のアドマイヤ冠の活躍馬が多数入厩するようになった。
アドマイヤムーンやアドマイヤジャパンが回ってきたのも、
その手腕が認められたからだろうし、
アドマイヤジャパンやアドマイヤオーラが及第点の結果を残せたからこそ、
その妹ブエナビスタにも巡り会えた。

もしアドマイヤドンがいなかったら、
今もなおせいぜい社台の二線級やタガノ冠くらいしか手掛けられなかったかも。



そういう意味で、92年にベガと出会ったのがすべての始まりだったのかもね。
それ以前のことは資料があまり残っていないのだが、
どうやらほとんど社台系の馬との接点はなかった模様。
ベガを管理するに至った経緯もわからない。

ヒントは、きっと脚が曲がっていた点でしょうね。
もし無事な体であれば、
姉ニュースヴァリューと同じく渡辺栄厩舎に行っていたかもしれない。

たまたま回ってきたベガの活躍があったからこそ、
社台系とのコネクションが生まれ、
バトルラインやレッドチリペッパーが90年代の厩舎を支えた。
そして、巡ってきたベガの仔をダート王へ仕立て上げたことで、
アドマイヤ軍団からの信頼を不動のものとした――
まさに運命。



華々しい活躍を見せたという意味では、
ブエナビスタやアドマイヤムーンが松田博厩舎の看板と言えるでしょう。
しかし、「名門」への道筋を作ったという意味では、
アドマイヤドンこそが屋台骨として讃えられるべき。
また、その母ベガはあらゆる意味で、今の厩舎の礎となりました。

一頭の名馬、そしてその親子がホースマンの人生を変えた。
この出会い、チャンスをモノにできたことが、現在の成功につながっているんですね。

ブエナビスタやレーヴディソールを擁する今季も、
インタビュー等で不機嫌そうなボスの話を聞く機会は多くなるでしょう。
その度に、「あーこのおっちゃんも色々あったんやなあ」と思うと、
少しは見る目も違ってきそうな気がします。